現地タイの新聞記事

◆ 翻訳 ◆

忍耐は成功の秘訣!

日本では伝統舞踊の先生として成功する道は、まずほうきとバケツからだそうです。
ほうきは弟子になりたいと思う先生の家の床を掃くためのもので、バケツは水をくんで雑巾をしぼり、掃き掃除の後床をひざまずいて拭くためのものです。
汚れた床を拭くようなひどく骨の折れる雑用と、脚光を浴びる優雅な踊りとの間に一つの大きな対照(対比)があるのです。
しかしこのような対比が、デンタニホテルで行われた日本文化ショーで歌舞伎踊りをするために最近バンコックを訪れた二人の先生方、花柳琢兵衛さんと若柳汎さんの成功の陰の物語なのです。
通訳の話によると花柳流の琢兵衛師匠は日本の舞踊家たちの地味な出発点について説明してくれました。それによると日本では芸をさじでものを食べさせるような自主性のないやり方で学ぶということはないそうです。つまり師匠たちは手を取って教えないし、踊りのテクニックも教えません。
師匠のテストに合格する第一段階は、踊りのテストではなく忍耐のテストだそうです。琢兵衛さんでさえテストを受けるのに三年かかったそうです。
琢兵衛さんによると、本当に踊りの勉強がしたいのかどうかはっきりして、師匠の弟子と認められるまでの間、三年間師匠の家で床を拭いたそうです。それに師匠たちは一般に生徒たちがもう我慢の出来なくなるまで待つのだと言うことも付け加えて言っておりました。
三年間のテスト期間を無事終了し、合格した後でさえ、手を取って教えるとか自分の知っていることを教えると言うことはなかったそうです。ただし師匠の踊っている時は必ず見ていて、その動きを自分で練習し、記憶したと言うことで、正直な話それは学ぶと言うよりは一種のテクニックの盗みという感じのものだそうです。

一方若柳汎さんの方は、師匠の家でのお掃除を五年した後で、例の忍耐力のテストに合格したそうです。彼女の話によると、「母は私が六歳の時からもう師匠の家で生活させ働かせました、最終的に認められて芸名をいただいた時は、もう師匠の家を出て外弟子になっておりました」とこの53歳の踊りの師匠は語ってくれました。ここは琢兵衛さんとは違っている点で、彼の方は住み込みの弟子であったそうで、両手を揃えて前に出したり引っ込めたりしながら床掃除をしなければならなかったと言っており、さらに両手で頭を押さえ上を見上げてため息をつきました。

しかし今やそれは二人にとっては過ぎ去った過去のものです。床ふきの長く辛い道のりの旅の後で、二人ともその流派を代表する師匠となったのです。
ここで言う「スクール」とは学ぶ場所という意味ではなく、思想の学派に近いものです。琢兵衛さんの流派には数多くの生徒がおり若柳さんの同様です。その生徒のうち約四分の一ぐらいが常にプロの踊り手になることを希望しているそうですが、残りは素人、余暇に踊りを習う家庭婦人、伝統技術に興味を持つ学生たちです。そしてこの二つのグループを違った風に教えているそうで、彼は笑って次のように教えてくれました。
「もちろんプロに進もうとする人にはより厳しく教えています。ただしもうかつてのようなほうきとバケツの時代ではないのですが、正しい踊り方(足の踏み方)を覚えてもらうために、罰として叱ることは時々ありますよ」と。さらに琢兵衛さんは、「日本で芸術家として生きようと思えば、忍耐強く不屈の気持ちでなければなりません。理由は明らかでしょう。ローマは一日にしてならずと同じで名声や成功も一日にして得られるものではありません。プロの踊り手になろうと決意すれば貧乏を覚悟しなければなりません。踊りの修行中は他のことは出来ません。同時に二足の靴を履くのと同じですから。そこで一生懸命働いてかなり苦しい時期を経験しなければなりません。その後にやっと一般の人々に認められるようになるのです」と語ってくれました。側では汎さんが同感ですとうなずいていました。
続けて琢兵衛さんは、「日本だけではなく世界中でも真実であることが一つあります。それは全ての人が頂上につけるというわけではないと言うことです。一つ一つ輝く星があれば、その後ろにはいつも幾千という失意の人々がいると言うことです」と語った。だからこそ師匠たちが床のふき掃除の時期に琢兵衛さんや汎さんに教え込もうとしたのはただ忍耐と不屈の精神であったように思われます。そしてそれは「踊りの人生は実際にとても厳しいものである」ということをわからせようとする師匠たちの好意的な警告だったのです。そのような賢明さがほうきとバケツの物語の後ろにあるわけです。

日本舞踊が観客を魅了

日本の演劇としての歌舞伎舞踊は1000年以上も前に中国から日本に伝わった伝統的な形から発達したものであるといわれています。だとすると歌舞伎は非常に立派な発達をしたものです。
デンタニホテルで土曜日の夜に開催された交流歌舞伎団の公演から考えると、歌舞伎はそれ自体とてもユニークな高度の技を使い高度な訓練を積んだものであるとわかります。
歌舞伎舞踊は非常に様式化された伝統的なものです。他の東洋の古典舞踊の形と違ってその動きが象徴的と言うよりはむしろ現実的である。例えば、土曜日の夜の公演の第四番目は「鷺娘」という題の踊りでしたが、それは雪(降り)で始まり、若柳汎さんが雪をさけるために傘を使っていました。雪が止むとその人は傘を脇にして閉じる前に、傘から雪を払い落とすという場面などの踊りの動きは簡単に通訳されて観客にもよくわかりました。
もう一つびっくりしたことは、最初の踊りで見られたのですが、「操り三番叟」という人形遣いと人形の出る演目で、その二人の踊り手の動きは説得力があるばかりでなくて、どう見ても現代西洋の模倣を暗示するものがありました。たぶん歌舞伎が簡単に分かり易い踊りの形なのは、根本的にもともと大衆芸術だと言うことでしょう。
さらに理解を深めるためには、その歴史を深く研究しなければなりません。歌舞伎は300年前に現在の形になりました。事実日本では踊りは歌舞伎劇の一部分に過ぎません。「歌舞伎」という言葉は「か」は音楽を、「ぶ」は踊りを、「き」は喜劇の意味を持っています。だから歌舞伎は音楽劇というのが一番ぴったりすると思われます。
200年前に、その人気が最高の時には、その対象となったのは多くは一般の小農民や大衆で、浮き世の苦労を一時の楽しみの中で忘れようとしてみにくる人々のために公演されたものでした。物語の内容は、たいてい愛や美しさ、時々政治的なものもありましたが、そういうものが演技と同じように踊りや歌を通して語られたのです。
俳優や踊り手は、顔を白く塗ってろうそくの光ぐらいの暗い舞台の上でもはっきり見えるようにしましたし、白いファンデーションの上に勇気を表す赤い線や邪悪を表す青い線、(道徳的)堕落を表す黒い線を観客にその人物がよくわかるように描いたりします。
しかし歌舞伎が民衆芸術だったとしても、大変複雑な専門的なものでしたし、それは現在までそのままの状態で続いています。
化粧を例にとると、上野イワオ氏(日本伝統芸術協会踊り部門の会長)が教えてくれたのですが、一人の踊り手が顔のメークアップをするのに1時間20分かかり、多くの着物を重ねて着るのに、二時間もかかるということです。
踊り手はその部門の専門家によって着物を着せられます。この理由はその方面の知識のない人には最初ははっきりしないかも知れませんが、歌舞伎を見た後ですぐにわかるはずです、歌舞伎舞踊の一つの特徴は舞台の上で踊りの一部として衣裳替えが行われることです。踊り手たちは何十もの色彩に富んだ衣裳を着ますが、それは踊っている間に舞台の登場人物でもある人たちの助けを借りて、舞台で脱いでいくのです。土曜日の公演では観客はこの極彩色の巧妙な衣裳替えに熱狂的な拍手をしました。

そのパーツが20万円ぐらいしたと言うことは知らなかったとしても、衣裳やメイクアップと同じように感動的だったのは踊り手のかぶった精巧なかつらでした。伝統的日本の髪型をかたどったこのかつらも、やはり衣裳と同じように舞台の上で取り替えられました。38歳の後藤タカヒロという人がつくったこのかつらは、踊り手の一人一人に合わせて作られたそうです。後藤氏は日本からいろいろと違った髪型の14のかつらを持ってきているそうです。彼の話によると、歌舞伎劇に使われるかつらは、100種類以上もあるそうで、かつらやさんが個人個人にどう合わせたらいいかを勉強するのだそうです。後藤氏はプロの歌舞伎かつら屋さんで、父親から技術を学び、その父親について22年間の経験を積んだそうですが、それでもほんの30ぐらいの髪型しかマスターしていないそうです。
このように歌舞伎の衣裳面などでさえも、何年もの経験を必要とするのですから、上手な踊り手になるにはもっと長い期間ともっと多くの専念(熱心さ)が必要です。
さらにイワオ氏が言うには、「芸の本当の師匠たちは、何十年もの勉強と練習の後にそうなるのです。日本には芸術を教える正式な学校がないし、それに関する文献もありません。教える唯一の時間といえば、世代から世代へと個人によって受け継がれる時だけです。たいていはすでに歌舞伎に携わっている芸術家は自分の子供たちに教えているようです。歌舞伎舞踊そのものは見て翻訳しやすいものですが実際に演ずるのは明らかにとてつもなく難しいものです。足の運びや動作は複雑に錯綜しているし、打楽器や弦楽器による伝統的歌舞伎の演奏に合わせて踊らなければなりません。例えばタイの古典舞踊と比べてみると、その動きが拍子(タイミング)の点で大いに変化しています。土曜日の公演では一連の微妙で優雅な動きが見られましたが、これらのものはさらにもっと積極的な動きへと発展するのです。特に男たちは飛び上がったり、ターンしたりして、かなり広い舞台空間をしめることになるのです。
踊りのもう一つの特徴は、音楽を強調するために、足を強く踏みならすことと、詠歌調のあの単調な歌です。公演の第五番目のものは、ちょうどよくこれを表したものでした。「供奴」は日本の昔のある地方の農民が踊ったタップダンスと紹介されましたが、「タップ」というのは実際に足を踏みならすことで、二人の踊り手が見事に演じて観客を興奮させていました。
プログラムの中の他の踊りは、黒髪と連獅子でした。前者の黒髪は一人の芸者の話で、歌舞伎舞踊の形を彷彿とさせる異国的優雅さの雰囲気をもつ素晴らしいものでした。この踊りは坂東タマミカさんによって見事に演じられました。後者の連獅子はたぶん歌舞伎が古代中国から受けた影響を反映していました。というのは、伝統的な中国の獅子の踊りに非常によく似ていたからです。
たぶん交流歌舞伎の公演とこれらのものとの主な相違点は、電子工学関係の機械仕掛けの道具類を使用していたことでしょう。
スポットライトや音響装置が公演全体を魅力あるものにするために上品に利用されていました。さらに踊り手の白い顔が(「おしろい」という古くから用いられている粉で出来ているのですが)、美しく強調されていました。
女性は一般的な歌舞伎演劇を演じる部門から伝統的に締め出されていますが、唯一踊ることは許されているそうです。土曜日の夜の公演から判断すると、女性も歌舞伎の芸で立派にやっていけることがわかります。事実交流歌舞伎舞踊団は9人の女性と3人の男性で構成されていました。「鷺娘」の汎さんは、47年の経験をもつこの団きってのベテランの踊り手です。鷺娘の彼女の踊りは衣裳とムードの四度の変化を含む一連のものを通して演じたものでしたから、彼女の専門的熟練が証明されたことになります。



HPへ / 一つ前のページへ