日本では伝統舞踊の先生として成功する道は、まずほうきとバケツからだそうです。
ほうきは弟子になりたいと思う先生の家の床を掃くためのもので、バケツは水をくんで雑巾をしぼり、掃き掃除の後床をひざまずいて拭くためのものです。
汚れた床を拭くようなひどく骨の折れる雑用と、脚光を浴びる優雅な踊りとの間に一つの大きな対照(対比)があるのです。
しかしこのような対比が、デンタニホテルで行われた日本文化ショーで歌舞伎踊りをするために最近バンコックを訪れた二人の先生方、花柳琢兵衛さんと若柳汎さんの成功の陰の物語なのです。
通訳の話によると花柳流の琢兵衛師匠は日本の舞踊家たちの地味な出発点について説明してくれました。それによると日本では芸をさじでものを食べさせるような自主性のないやり方で学ぶということはないそうです。つまり師匠たちは手を取って教えないし、踊りのテクニックも教えません。
師匠のテストに合格する第一段階は、踊りのテストではなく忍耐のテストだそうです。琢兵衛さんでさえテストを受けるのに三年かかったそうです。
琢兵衛さんによると、本当に踊りの勉強がしたいのかどうかはっきりして、師匠の弟子と認められるまでの間、三年間師匠の家で床を拭いたそうです。それに師匠たちは一般に生徒たちがもう我慢の出来なくなるまで待つのだと言うことも付け加えて言っておりました。
三年間のテスト期間を無事終了し、合格した後でさえ、手を取って教えるとか自分の知っていることを教えると言うことはなかったそうです。ただし師匠の踊っている時は必ず見ていて、その動きを自分で練習し、記憶したと言うことで、正直な話それは学ぶと言うよりは一種のテクニックの盗みという感じのものだそうです。
一方若柳汎さんの方は、師匠の家でのお掃除を五年した後で、例の忍耐力のテストに合格したそうです。彼女の話によると、「母は私が六歳の時からもう師匠の家で生活させ働かせました、最終的に認められて芸名をいただいた時は、もう師匠の家を出て外弟子になっておりました」とこの53歳の踊りの師匠は語ってくれました。ここは琢兵衛さんとは違っている点で、彼の方は住み込みの弟子であったそうで、両手を揃えて前に出したり引っ込めたりしながら床掃除をしなければならなかったと言っており、さらに両手で頭を押さえ上を見上げてため息をつきました。
しかし今やそれは二人にとっては過ぎ去った過去のものです。床ふきの長く辛い道のりの旅の後で、二人ともその流派を代表する師匠となったのです。
ここで言う「スクール」とは学ぶ場所という意味ではなく、思想の学派に近いものです。琢兵衛さんの流派には数多くの生徒がおり若柳さんの同様です。その生徒のうち約四分の一ぐらいが常にプロの踊り手になることを希望しているそうですが、残りは素人、余暇に踊りを習う家庭婦人、伝統技術に興味を持つ学生たちです。そしてこの二つのグループを違った風に教えているそうで、彼は笑って次のように教えてくれました。
「もちろんプロに進もうとする人にはより厳しく教えています。ただしもうかつてのようなほうきとバケツの時代ではないのですが、正しい踊り方(足の踏み方)を覚えてもらうために、罰として叱ることは時々ありますよ」と。さらに琢兵衛さんは、「日本で芸術家として生きようと思えば、忍耐強く不屈の気持ちでなければなりません。理由は明らかでしょう。ローマは一日にしてならずと同じで名声や成功も一日にして得られるものではありません。プロの踊り手になろうと決意すれば貧乏を覚悟しなければなりません。踊りの修行中は他のことは出来ません。同時に二足の靴を履くのと同じですから。そこで一生懸命働いてかなり苦しい時期を経験しなければなりません。その後にやっと一般の人々に認められるようになるのです」と語ってくれました。側では汎さんが同感ですとうなずいていました。
続けて琢兵衛さんは、「日本だけではなく世界中でも真実であることが一つあります。それは全ての人が頂上につけるというわけではないと言うことです。一つ一つ輝く星があれば、その後ろにはいつも幾千という失意の人々がいると言うことです」と語った。だからこそ師匠たちが床のふき掃除の時期に琢兵衛さんや汎さんに教え込もうとしたのはただ忍耐と不屈の精神であったように思われます。そしてそれは「踊りの人生は実際にとても厳しいものである」ということをわからせようとする師匠たちの好意的な警告だったのです。そのような賢明さがほうきとバケツの物語の後ろにあるわけです。
|